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「筑豊炭田遺跡群」国指定史跡に! - 第3回

更新日 2018年08月07日


「市報のおがた」では、官報告示にむけて、しばらくの間、毎月1日号で、国史跡指定の答申を得た筑豊炭田遺跡群のひとつ「旧筑豊石炭鉱業組合直方会議所及び救護練習所模擬坑道」の歴史的意義と、その魅力について、みなさまに少しずつご紹介しています。


第3回『筑豊石炭鉱業組合直方会議所周辺 炭坑保安の拠点へ』

炭坑を掘る技術が進化すると、それまでよりずっと深いところまで坑道を伸ばせるようになっていきます。明治30年代には深さ200mを超え、40年代には360mを超える竪坑が掘られるようになります。このように、深い炭坑が増えることは、爆発性ガスの発生が増加するだけでなく、落盤や出水、爆発、火災などの災害が増えることになります。明治30年代には200~300人が一度に亡くなるような大きな事故が複数発生しはじめます。

 こうした中、明治40年(1907)4月穂波郡の住友忠隈炭鉱において発生した坑内火災において、わが国で初めてドイツ製ドレーガー式救命器(酸素マスク)が使用され、消火作業に大きな役割を果たしました。明治炭鉱の技術者、石渡信太郎が提言したことがきっかけとなって、筑豊石炭鉱業組合が高額な救命器を購入し、直方会議所建設の際、隣接して土蔵を設置し、救命器を保管することにしました。この倉庫が現在「石炭化学館」として利用されている建物の前身です。 

 炭坑での大事故は尊い人命が失われるだけでなく、経営者にも大きな打撃を与えます。組合は、このころから海外先進地の炭坑保安技術に強い関心を示しており、明治44年(1911)には、常議員であった松本健次郎がドイツの炭坑保安施設を視察しています。

 さて、高額な救命器も欠陥があっては役に立ちませんし、その使い方も周知しなければなりません。組合は、明治45年(1912)、ヘルメット式マスクの気密検査をするとともに、練習会を開催するための非常用器具練習室を、直方会議所の裏手に建設しました。その規模は内法で長さ9.2m、幅1.8m、高さ1.7mというものでした。これが、国内最初の救護練習用の模擬坑道です。 

大正3年(1914)12月には犠牲者687人を出すという三菱方城炭鉱の爆発事故が発生しました。同年11月には北海道の若鍋炭鉱でも大爆発事故が発生しており、この年の炭坑事故の犠牲者は1,000人を超えました。このことを重くみた政府は石炭坑爆発取締規則を定め、危険な炭坑では救護隊を組織することを義務付けました。また、安全灯の不備が爆発事故の一因であったため、組合と政府は共同して、安全灯試験場を設置することになります。翌大正4年5月、直方会議所に隣接する御館山の山頂に、試験場を開設、大正6年(1917)11月には爆発試験坑道を増築し、名称も石炭坑爆発予防調査所に改称しました。こうして、直方会議所周辺は筑豊炭田における炭坑保安の拠点となっていきました。

まるで潜水士のマスクのような古い酸素マスクのついた救命器

1907年ドイツ製ドレーガー式救命器(国内最古のもので、石炭記念館本館に展示している。同型のものは、東京大学に1台しかない。)

木造の救命器練習室の前で、複数の人が救助練習を行っている。

明治45年(1912)、筑豊石炭鉱業組合直方会議所の背後に建てられた非常用器具練習室。国内最初の救護練習用の模擬坑道である。(『筑豊石炭鉱業会50年史』より)

木造の和風建物、切妻造り。

大正4年(1915)、御館山(今の多賀公園)山頂に建てられた安全灯試験場(『資源技術研究所九州支所80年記念史』より)

細長い断面半円形の試験坑道。左側に土手、右側に建物がある。

大正6年(1917)、御館山(今の多賀公園)山頂に建設された爆発試験坑道(石炭記念館所蔵写真)

このページの作成担当・お問い合わせ先

直方市教育委員会 文化・スポーツ推進課 社会教育係(直方市中央公民館内)

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