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「筑豊炭田遺跡群」国指定史跡に! - 第5回

更新日 2018年10月29日

「市報のおがた」毎月1日号で、筑豊炭田遺跡群のひとつ「旧筑豊石炭鉱業組合直方会議所及び救護練習所模擬坑道」の歴史的意義と、その魅力について、みなさまに少しずつご紹介しているところですが、このたび、10月15日付の官報で、当遺跡群が正式に国史跡に指定されました。本市では、はじめての国指定史跡です。


第5回『筑豊石炭鉱業組合直方会議所と救護練習所模擬坑道のその後』

 筑豊石炭鉱業組合は、利害関係から、昭和8年から9年(1934年から1935年)に、大手炭坑からなる「筑豊石炭鉱業会」と、中小炭坑からなる「筑豊石炭鉱業互助会」に事実上分裂します。直方会議所周辺の拠点施設は、筑豊石炭鉱業会の管理となりますが、鉱業会は、この年会議所東側(今の新館位置)に53坪の連絡所を新築します。この建物は、主に救命器の組立装着室、修理室、酸素充填室としてとして利用されました。

救護練習所は、昭和9年筑豊石炭鉱業会の発足に伴って同会の所属となりますが、昭和16年(1941)には、戦時体制に臨んで筑豊石炭鉱業会は解散。石炭統制会の管轄にはいりました。

戦後は九州石炭鉱業会の管理となり、九州炭鉱救護隊連盟直方救護練習所と称しました。この時点では、直方会議所の建物も完全に練習施設となり、三井三池鉱を含む福岡県内一帯や宇部炭鉱等からの救護訓練を受け入れましたが、救護練習所が糟屋町に移転することとなり、昭和43年(1968)12月練習所を閉鎖。約半世紀の歴史を閉じました。その後、日本石炭協会九州支部がこの施設を整備して直方市に寄贈し、直方市石炭記念館となりました。

 

以上のように、救護練習所模擬坑道は、炭鉱の大規模化に伴う災害の増加に対応するため、明治45年(1912)、日本で最初に設置されたものであり、大正期に建設された煉瓦造アーチ及びRC造アーチの模擬坑道は、当初の姿をほぼそのまま残しています。当施設では、筑豊石炭鉱業組合時代の明治45年から昭和9年3月までに延23,256人、筑豊石炭鉱業会時代の昭和9年4月から昭和16年までに延11,700人が救護練習を行い、戦後、九州炭鉱救護隊連盟時代の昭和27年7月から直方救護練習所が閉鎖される昭和43年12月までの間に、基礎訓練を終了した作業隊員9,682名、整備員480名を数えます。その総数は延44,638人で、戦時中の練習生を含めるとさらに多くの隊員が養成されたこととなります。彼らは各炭鉱で救護要員として災害に備えました。この救護練習模擬坑道は、過酷な災害と隣りあわせであった近代炭鉱の実態を伝える遺跡として、きわめて重要な存在といえます。

 

筑豊石炭鉱業組合直方会議所と救護練習所模擬坑道は、筑豊炭田遺跡群のひとつとして、国指定史跡となりましたが、直方が筑豊石炭鉱業組合の拠点であり、国内における炭坑保安の最先進地であったことを示す貴重な文化財なのです。この機会に、多くのみなさまに歴史的背景を知っていただくとともに、ぜひ石炭記念館に足を運んでいただき、この文化財を大切にしていただければと願っています。


筑豊石炭鉱業会の発足を決議する議事録

社団法人 筑豊石炭鉱業会発足を決議する総会議事録

2棟の木造建物。左側は平屋、右側は2階建

直方会議所(右)の東側に建設された連絡所(左)(昭和10年頃)

昭和20年代の施設配置図

九州石炭鉱業協会 直方救護所平面図(昭和23年頃)

標柱、銘板と模擬坑道を模したモニュメント

直方救護練習所之跡のモニュメント 救護練習模擬坑道の形状を模している。(直方市石炭記念館)

救護活動をモチーフにした銅板レリーフ

モニュメントに設置された坑道内での救護活動をテーマにしたレリーフ(直方市石炭記念館)

高台に移築された竪坑櫓、救護練習所模擬坑道、木造建物2棟、土蔵が並ぶ

開館当初の直方市石炭記念館(昭和46年頃)


このページの作成担当・お問い合わせ先

直方市教育委員会 文化・スポーツ推進課 社会教育係(直方市中央公民館内)

電話:0949-25-2326 所在地:直方市津田町7−20 このページの内容についてメールで問い合わせする